アーロン・ホルバートの夢
原題Aaron Holbert's Dream
原文:Birt Ripp

超訳:yosiie@マママママリナーズ
http://www.pubdim.net/baseballlibrary/submit/Ripp_Bart1.stm

 いっときの夢。

 スパイクでコツコツと音を鳴らしながらコンクリートの花道を歩く。前方には霧がかった、そして強烈な緑色を放つフィールド。明るいナイターの光の下でパッと照らされたとき、観客がみんな自分の名前を叫ぶ。

 アーロン・ホルバートはいつでもそのシーンを夢見つづけている。観客は彼のニックネーム「ホビー!」と叫び、彼はグッとひさしを引っ張り気合をいれる。スポットライトに照らされるそんな幾夜のための準備は万端だ。

 彼はかつて1度だけそれを経験したことがある。アーロン・キース・ホルバート。タコマ・レイニアーズ(マリナーズのAAAチーム)のショート、29歳。12年間のプロ生活の中で、忘れもしない1996年の4月の日曜日、その夢がかなった。しかし彼がメジャーでプレーしたのはその1試合だけだった。1900年以降14000人の選手がメジャーリーグでプレーしてきた。しかしそのうち600人は、1試合だけしか出場できなかった。生涯でたった1試合だけ。

 タコマ・レイニアーズにはもう一人同じ経験をした選手がいる。一塁手ロン・ライトだ。彼もまた生涯マイナーリーガーで、2002年の4月14日テキサス戦でメジャーデビューした。三振、トリプルプレー、ダブルプレー。たった3度の打席で合計6つものアウトを計上し、マイナーに再降格した。
 何の因果かホルバートが1日だけのメジャーリーグを経験したのも1996年の同じ日、4月14日だった。

 ホルバートはロングビーチで生まれ育った。兄のレイ・ホルバートはパドレス、エクスポズ、ブレーブス、ロイヤルズで合計115試合に出場した元メジャーリーガーで、昨年(2001年)引退しフェニックスで不動産業を営んでいる。
 子供の頃、アーロン・ホルバートの部屋にはランボルギーニ・ディアブロのポスターと、カウンタックのプラモデルが飾られていた。(それらは30万ドル(≒3600万円)以上するイタリアのスポーツカーで、高給スポーツ選手が乗っている)

 「それを持ってるって人を見たことないよ」とホルバートは言った。

 1990年6月の輝かしいあの日、ホルバートはランボルギーニは目の前だと思った。彼はセントルイス・カージナルスにドラフト1順目、全体で18番目で指名されたのだ。その日ジョーダン高校にやってきた報道陣のことを、彼は遠い目で語った。

 「4年でメジャーリーガーになってやるって言ったんだ」とホルバートは言った。「オレは絶対に立ち止まることなく、もらったチャンスすべて生かすんだって思ってた。」

 彼は19万5000ドルのボーナスを受け取ると、テネシー州ジョンソンシティへと旅立った。これが彼の最初のマイナーチームとなる。それから6年間、カージナルスの組織でゆっくりではあったが、確実にメジャーリーグへの道を歩んでいった。そしてその日は突然やってきた。いつものようにルイスビルからゲームに向かうバスに乗り込んだホルバートは、レッドバーズ(カージナルスのAAAチーム)の監督ジョー・ペッティーニに、バッグごとバスからおろされ、こう告げられた。

 「おまえはビッグリーグへ行くんだ。」

 ホルバートはメジャーリーグに5日間在籍した。彼がセントルイスに滞在している間に、カージナルスはパット・ボーダース捕手と契約し、身体検査をするために本拠地ブッシュスタジアムへむかわせた。

 「ホルバートはオレをグラウンドクルー(球場職員)だと思ったみたいなんだ」ボーダースは言った。39歳となった彼は今、タコマでホルバートのチームメートとなっている。「小汚いジーンズと古いブーツ、それにワークシャツを着ていたからな。」
 「この男をみたときに、なんていかしたヤツなんだって思ったよ。グラウンドクルーなのになんて運動能力してるんだ!ってね。そしたらユニフォームを着始めたってわけさ。」ホルバートはこう付け加えた。

 ホルバートは1996年4月14日の試合で1番セカンドで先発出場した。その試合カージナルスは6-5でフィリーズを破った。
 「相手投手はシド・フェルナンデス(通算114勝96敗3.36)だった。全ての速球が火を噴いてたよ」ホルバートは言った。「最初の打席では、フルカウントからフェンス際まで打球を飛ばしたんだ。でもアイゼンライクがそれをキャッチした。」
 「第2打席はキャッチャーへのポップフライ。3打席目はセンターフライ。それからダブルスイッチでの交代でベンチへ下がったんだ。」
 試合後、故障者リストにはいっていたカージナルスの名ショートオジー・スミスが「打球を打ちあげたら、打率は下がる。打球を叩きつければ、打率は上がるよ。」と声をかけてきた。

 次の日スミスは故障者リストから復帰し、ホルバートはルイスビルへかえされた。その後彼は98年はオーランド(フロリダ)とタコマへ、それからデューラム(ポータケット)、カルガリー、シラキュースとチームを1年ごとに転々とし、そして今年(02年)再びタコマへやってきた。その間彼がビッグリーグに呼ばれることは1度も無かった。

 ホルバートは怪我をのろうほど嫌っている。怪我しやすいヤツだというレッテルを貼られると考えているからだ。

 「彼は安定している、基本的なショートだね」マリナーズの選手育成部副部長ベニー・ルーパーは言う。「彼は走ってもいい、でも特別凄いわけない。送球もいい、でも特別凄いわけじゃない。それにしても彼はよく打つ。試合をこなしてもバットの振りが鈍らない。このチームはいい選手をもったものだよ。」

 「彼はあと一歩が足りなかったんだよ。彼を抜かしてビッグリーグに残った選手、カルロス(ギーエン)、そしてマクレモア、レラフォード、ギプソンはみんな彼よりも勝っていたんだ。」(春季キャンプで彼は11打数6安打.545の成績を残したが、すべてシングルヒットだった)「もしショートが必要になったら、迷わずホルバートにチャンスを与えるよ。ただし忘れてもらいたくないのは、彼がいつまでも若くないってことだね。」

 ドラフトされてから12年の間でのたった1試合は、6年目のことだった。シアトルからお呼びがかかった選手を迎えるためにダン・ローン監督がロッカーにはいってくるとき、ホルバートは直感でそれがわかる。
 「そんな彼を見かけたら、こっちへこい!こっちへこい!って独り言を言うんだ。」ホルバートは言う。「いつの日かそれは僕になる。だっていつでもそればかり考えてるんだぜ。」

 もし実現したら、彼はローン監督にもう一度その言葉を言ってもらうようお願いする。そう、フォンタナ(カリフォルニア)にいる妻のジャッキーに電話口から言ってもらうのだ。「これは嘘じゃない、現実なんだよ」と。そのとき、ちょうどその時点から、それは『夢』ではなくなるのだ。

2002年7月1日寄稿